部屋が静かすぎる夜は、ボイスメモを消してはいけない。
そう書いておけばよかったと、今なら思う。
その録音を見つけたのは、眠る前だった。スマートフォンの空き容量を増やそうとして、使っていない写真や音声を整理していたとき、ボイスメモの一覧に覚えのないファイルが一つ混じっていた。
題名はない。録音時間は三分十七秒。作成日時は、その日の午前二時十三分だった。
その時刻、私は眠っていたはずだ。
再生すると、最初に聞こえたのは冷蔵庫の低い動作音だった。次に、窓を細かくたたく雨。壁の時計が秒を刻む音。どれも、いまこの部屋で鳴っている音と同じだった。
しばらくすると、布団がこすれる音が入った。
そして、私の寝息。
誰かが枕元にスマートフォンを置いて録音したように、近い。
気味が悪くなり、最後まで聞かずに停止した。寝ぼけて録音ボタンに触れたのだろう。そう考えて、ファイルを削除した。
一覧から消えた。
ところが、画面を閉じようとした瞬間、同じ場所に無題のボイスメモが戻ってきた。
録音時間は、三分十六秒。
一秒だけ短くなっている。
もう一度削除した。今度は三分十五秒になって戻った。端末の不具合だと思い、電源を切って入れ直した。それでもファイルは残っていた。
三分十五秒のまま。
再生してみると、さっきまで入っていた時計の音が聞こえなかった。
私は壁を見た。秒針は動いている。けれど、音がしない。耳を近づけても、ガラスに触れてみても、針だけが滑るように進んでいた。
そこで初めて、時計以外にも消えた音があることに気づいた。
窓の外では雨が降り続いていた。街灯の光の中を、雨粒が斜めに流れている。しかし、ガラスをたたく音はなかった。
冷蔵庫の低いうなりだけは続いていた。その音が、部屋に残った最後の日常のように思えた。
二回削除した。
録音から消えた二秒と引き換えに、部屋から二つの音が消えた。
そんなはずはない。私は手を打った。
乾いた音が一度だけ響いた。
安心しかけたとき、スマートフォンの画面でボイスメモの長さが勝手に変わった。
三分十四秒。
再生すると、録音の中から私の寝息が消えていた。
その代わり、前には聞こえなかった声が残っていた。
あと、三つ。
知らない声ではなかった。
私の声だった。
もう一度、手を打った。手のひらが触れた感触はあるのに、音は鳴らなかった。声を出そうとした。
「誰が録った」
自分の声は聞こえた。
録音の中で、同じ言葉が一拍遅れて再生された。
誰が録った。
私は再生を止めた。
止めたはずなのに、画面の波形は動き続けた。録音の残り時間が減っていく。スピーカーから、私が立ち上がる音、机に膝をぶつける音、カーテンを開ける音が順番に流れた。
どれも、音が流れた直後に私がした動作だった。
違う。
録音が先だった。
ボイスメモは、数秒後のこの部屋を再生していた。
私はスマートフォンを机に置き、動かないことにした。波形だけが静かに右へ進んだ。
やがて録音から、椅子がきしむ音がした。
私は座ったままだった。
もう一度、椅子がきしんだ。今度はすぐ後ろから、実際の音が続いた。
背もたれがわずかに沈んだ。
誰かが、私と同じ椅子に腰を下ろしたように。
画面には「残り 00:08」と表示されていた。
録音の中で、私の声がした。
最後まで聞いたら、次は聞いた人の音になる。
その言葉の意味を考える前に、背後から息を吸う音が聞こえた。
私の呼吸ではない。
画面は「残り 00:03」。
私はスマートフォンを伏せた。
この文章は、その直前まで音声入力で書いたものだ。誰かに残しておけば、少なくとも自分だけの出来事ではなくなると思った。
ただ、一つだけ誤算があった。
音声入力を止めても、文章の末尾に文字が増え続けている。
いま追加された最後の一文は、私が話したものではない。
ここまで読んだ人の部屋で、最初に消えたのは何の音ですか。