これは、実在しない場所と人物を描いた創作短編です。
夜道の端に、自動販売機が一台だけ立っている。
横には古い掲示板があり、後ろは空き地だった。通りから少し奥まっているせいで、昼間でもそこだけ影が濃い。夜になると、自動販売機の白い光だけが歩道へ四角く落ちていた。
私は帰りが遅い日に、そこで水を一本買うことにしていた。
飲み物の種類はどこにでもあるものばかりで、特別な自動販売機ではない。けれど、ある夜から、下から二段目の左端だけに赤い「売り切れ」の文字が点くようになった。
翌朝、そこを通ると、売り切れは右端へ移っていた。
夜に見た場所を覚え違えたのだと思った。ところが次の日の朝には、上から一段目の真ん中。その次の朝には、下段の右から二番目。売り切れの商品は毎回違うのに、他の飲み物はどれも補充された気配がなかった。
変だと思いながらも、私は夜だけ水を買った。
水のボタンはいつも点いている。硬貨を入れれば、短い音がして取り出し口に落ちてくる。缶でも瓶でもなく、透明なペットボトルだった。ラベルには、白地に青い線が一本だけ入っていた。
ある朝、売り切れの列が横一列になっているのを見た。
上から二段目が、左から右まで全部赤い。その段だけ、飲み物の写真が暗く沈んでいる。夜には一つしか売り切れていなかったはずだった。
私はその日の帰り、少し離れた場所で立ち止まった。
自動販売機の前には誰もいない。車も通らない。白い光はいつもどおり歩道を照らし、掲示板の錆びた縁を光らせていた。
近づいてみると、売り切れは左下の一つだけに戻っていた。
私は水のボタンを押さなかった。
代わりに、売り切れになっている左下のボタンへ指を置いた。押しても反応しないはずだった。赤い表示は点いたままで、硬貨も入れていない。
それなのに、取り出し口の奥で何かが落ちる音がした。
しゃがんで覗くと、飲み物ではなく、小さな赤い板が一枚入っていた。
「売り切れ」と白い字で書かれている。自動販売機のボタンの中で光っているものと同じ大きさだった。拾い上げると、板はほんのり温かい。
顔を上げると、左下の赤い表示が消えていた。
すべての商品が買える状態になっている。
私は赤い板を持ったまま帰った。捨てる気になれず、玄関の棚に置いた。夜中、部屋の電気を消しても、その板だけがかすかに光っていた。
翌朝、自動販売機の前を通ると、売り切れの列は縦に並んでいた。
左端のボタンが、上から下まで全部赤い。昨日、私が板を持ち帰った場所を起点にして、まっすぐ上へ伸びているように見えた。
私は足を止めた。
赤い表示の奥に、飲み物の写真とは違うものが映っていた。
細い棚。靴べら。畳まれた傘。玄関の棚の端に置いた、小さな赤い板。
私の部屋の入口だった。
慌てて帰ると、玄関の棚に置いたはずの板はなくなっていた。
代わりに、水のペットボトルが一本立っていた。白地に青い線が一本だけ入った、いつもの水だった。まだ冷たい。
その日の夜、私は自動販売機の前へ行かなかった。
次の朝、遠回りをするつもりだったのに、足はいつもの道へ向いていた。空き地の端で白い光が消えている。近づくと、自動販売機のすべてのボタンに赤い表示が点いていた。
上から下まで、左から右まで、全部が売り切れだった。
ただ一つ、取り出し口だけが開いていた。
中には赤い板が何枚も重なっている。どれも「売り切れ」と書かれていたが、一番上の一枚だけ、裏返しになっていた。
私は触れてはいけないと思った。
けれど、板の裏に小さな字が見えた。
「明日の朝、右から三番目」
その場所を見ると、右から三番目のボタンだけ、赤い表示の奥が暗く透けていた。
そこに映っていたのは、飲み物でも私の部屋でもない。
朝の歩道に立ち、自動販売機を覗き込んでいる私の背中だった。
私は振り返った。
誰もいない。
もう一度ボタンを見ると、映っている私は、こちらを振り返っていた。
その胸には、赤い板が一枚貼りついていた。
白い字で、はっきりと書かれている。
売り切れ。