これは、実在しない場所と人物を描いた創作短編です。
貸し自転車置き場の表示板は、日付が変わる五分前になると一度だけ暗くなる。
私はその暗転を毎晩見ていた。表通りから少し外れた無人の置き場で、閉まる門もなければ受付もない。屋根の下に二列のラックがあり、入口の小さな表示板に「貸出台数」と「返却台数」だけが出る。
本来なら、日付が変わるまで数字は今日のままだった。
けれど、その夜だけ、返却台数の欄が先に変わった。
二十三時五十五分。表示板が一瞬暗くなり、すぐに白い数字が戻る。貸出台数は今日のままなのに、返却台数だけが明日の欄へ送られていた。まだ日付は変わっていない。腕時計も、入口の古い丸時計も、二十三時五十五分を指している。
返却台数は、一台だった。
ラックを見回した。自転車はすべて眠ったように並んでいる。前輪を固定する金具も、赤いランプも、いつもどおりだった。風が屋根の端を撫で、遠くで信号の音が変わる。それだけだった。
私は表示の故障だと思い、控えの端末を開いた。貸出中の番号は三つ。返却済みの番号は、今日の欄に十四台。明日の欄は空白でなければならない。
そこにも、一台と出ていた。
明日返ってくるはずの自転車が、もう返ったことになっている。
番号は表示されない。無人置き場では、夜間の細かい記録は翌朝まとめて開くことになっている。急ぎの故障でもなければ、夜に一台ずつ調べる必要はない。そう決まっている。
それでも私は、端からラックを見ていった。
一番奥の列に、泥のついた自転車があった。サドルも、ハンドルも、前かごも乾いているのに、タイヤだけが濡れていた。雨は降っていない。濡れた跡は床へ落ちず、タイヤの溝の中にだけ黒く残っていた。
番号札を見ると、貸出中の三つには含まれていなかった。
私はその番号を控え、端末へ打ち込んだ。検索結果は「未登録」だった。壊れた番号札が混ざっているのかもしれない。古い車体を回収したあと、札だけ残ることがある。そんな説明を自分に渡して、私は奥の照明を消した。
日付が変わる二分前、表示板がまた暗くなった。
返却台数は、二台になった。
入口から、押してくる音がした。
ペダルが空回りする、小さな金属音だった。私は振り返った。門の外には誰もいない。舗道にも、車道にも、人影はない。ただ、入口の白線を越えて、自転車が一台だけゆっくり入ってきた。
倒れるほど遅くはない。誰かが後ろを押しているほど真っすぐでもない。前輪が少し揺れ、ラックの間を迷うように進み、空いていた金具の前で止まった。
私は声を出せなかった。
自転車は、前輪から音もなく金具へ吸い込まれた。赤いランプが緑へ変わる。返却完了の短い電子音が、屋根の下に一つだけ鳴った。
番号札は、さっき控えた未登録のものと同じ形だった。ただし数字が違う。端末で検索しても、その番号は出てこない。
日付が変わった。
表示板は、ようやく全体を明日の欄へ切り替えた。貸出台数はゼロ。返却台数は二台。けれど、ラックには二台ぶん多く自転車があるように見えない。数えてみると、最初と同じ台数だった。
私はもう一度端から数えた。
同じだった。
増えた二台は、どこにも増えていない。代わりに、奥の列にあったはずの一台が消えていた。濡れたタイヤの跡もない。床は乾いている。番号を控えたメモだけが、私の手の中で少し湿っていた。
翌朝、管理用の一覧を開くと、夜間返却は二台になっていた。
ただし返却時刻は、どちらも翌日の二十三時五十五分だった。
私は画面を閉じた。見なかったことにするには、数字がきれいすぎた。二台。二十三時五十五分。日付は今日ではなく、次の明日。まだ来ていない夜から、すでに戻ってきている。
その日の夜、私は早めに置き場へ行った。
表示板は静かだった。貸出台数も返却台数も、昼間の記録をそのまま保っている。通りを歩く人はときどきいたが、誰もこちらを見なかった。ここは、借りる人と返す人だけが短く立ち止まる場所だ。立ち止まらない人には、何もない屋根にしか見えない。
二十三時五十五分。
表示板が暗くなった。
返却台数は、三台になった。
今度は入口ではなく、ラックの奥から音がした。誰かがスタンドを払うような、乾いた音だった。見ると、昨日消えたはずの自転車が、奥の列に戻っていた。濡れていたタイヤは乾いている。そのかわり、前かごに紙片が一枚入っていた。
そこには、短くこう書かれていた。
「一台足りない夜に、数えに来ないでください」
私は紙片を戻した。
端末を開けば、番号を調べられる。防犯用の記録を見れば、誰が返したのか追えるかもしれない。だが、昨日の二台は、まだ来ていない時刻から返ってきていた。追うなら、こちらもまだ来ていない場所へ行くことになる。
二十三時五十八分。
表示板の返却台数が、四台になった。
私は数えなかった。
屋根の下で、ペダルの空回りする音がいくつも重なった。誰も乗っていない自転車が、ラックの間で少しずつ向きを変える。緑のランプが、奥から順に消えていく。消えた場所には、自転車があるようにも、ないようにも見えた。
入口の外に、一台だけ止まっていた。
見覚えのない車体だった。番号札は空白で、サドルは私の背丈に合っている。前かごには、小さなメモが入っていた。
「明日の分です」
表示板を見ると、貸出台数が一台増えていた。
私はそれに触らなかった。
触らなかったのに、緑のランプが赤に変わった。
日付が変わる直前、置き場の奥で返却完了の電子音が鳴った。まだ借りてもいない自転車が、もう戻ってきた音だった。