これは、実在しない建物を舞台にした創作短編です。
深夜のエレベーター点検には、ひとつだけ守るべき決まりがある。
呼ばれていない階には、降りないこと。
その夜、私は八階建ての小さな雑居ビルにいた。昼間は事務所や教室として使われているらしいが、午前零時を過ぎた館内には誰も残っていない。入口の照明は半分落とされ、床を磨いた洗剤のにおいだけが薄く漂っていた。
依頼は簡単な定期点検だった。
一階から八階までエレベーターを動かし、扉の開閉、階数表示、非常通話の応答を確認する。異常がなければ、地下の管理室にある点検票へ署名して帰る。
私は一階の乗り場に「点検中」の札を立て、操作盤の鍵を回した。
時刻は、ちょうど午前零時。
上の階に止まっていた箱が、低い駆動音とともに降りてくる。表示は八、七、六と順に変わり、一階で止まった。
扉が開いた。
中には誰もいなかった。
ただ、床の中央に白い紙が一枚落ちていた。
拾い上げると、古い書式の点検票だった。建物名の欄は空白で、日付だけが翌日になっている。確認項目には、すべて赤い印がついていた。
一階 異常なし
二階 異常なし
三階 異常なし
四階 異常なし
五階 異常なし
六階 異常なし
七階 異常なし
八階 異常なし
地下二階 応答あり
このビルに地下二階はない。
地下は管理室のある一階層だけだ。操作盤にも、地下二階のボタンはなかった。
誰かのいたずらだろう。
紙を工具箱へ入れ、私は通常どおり点検を始めた。二階で扉を開け、閉じる。三階、四階、五階。どの階も照明が消え、廊下の奥は黒い板のように見えた。
六階で扉が開いたとき、外の呼び出しボタンが光っていることに気づいた。
誰もいないのに、下向きの矢印が点灯している。
私は箱から出ず、操作盤の記録だけを確認した。呼び出しは、ほんの数秒前に押されていた。
扉が閉まる直前、廊下の奥で何かが動いた。
人影に見えたが、照明が反射しただけかもしれない。扉を開け直す理由はない。私は七階のボタンを押した。
箱が上昇する。
ところが表示は六のまま変わらなかった。
数秒後、わずかな揺れとともに止まる。扉が開くと、そこには先ほどと同じ六階の廊下があった。
下向きの矢印は消えていた。
代わりに、床へ白い点検票が置かれていた。
さっき工具箱へ入れたものと同じ紙だった。
拾わずに扉を閉め、もう一度七階を押した。表示は六から七へ変わり、今度は七階に着いた。
私は呼ばれていない階には降りない。
それが夜間点検の決まりだ。建物に残っている人がいれば、管理側から連絡が来る。勝手に人を探しに行けば、点検中の設備を無人にしてしまう。
そう自分に言い聞かせ、八階まで確認を終えた。
あとは地下の管理室で署名するだけだった。
地下のボタンを押す。
箱は下降を始めた。八、七、六。階数表示が順に変わる。
三、二、一。
そして、地下。
いつもなら、そこで止まる。
だが、その夜は止まらなかった。
表示から「地下」の文字が消え、代わりに数字の二が浮かんだ。上下を示す矢印は下を向いたままだ。
操作盤を見ると、地下のボタンの下に、見覚えのない丸いボタンが増えていた。
「地下二階」
白い文字が内側から光っている。
私は非常停止の操作をした。反応はない。非常通話のボタンを押すと、呼び出し音が一度だけ鳴り、すぐ誰かが出た。
「点検、お疲れさまです」
男とも女とも分からない、平らな声だった。
「地下二階へ向かっています。停止させてください」
しばらく雑音が続いた。
「地下二階はありません」
「表示されています」
「でしたら、扉が開いても降りないでください」
そこで通話が切れた。
箱が止まった。
扉の隙間から、暗い廊下が見えた。一階から八階までとは違い、床も壁も打ち放しで、天井には裸電球が一つだけぶら下がっている。
正面に折り畳み机があり、その上に点検票が置かれていた。
翌日の日付が入った、あの点検票だ。
赤い印がついていなかった最後の欄に、いつの間にか文字が増えていた。
地下二階 応答待ち
私は「閉」のボタンを押し続けた。
扉は動かない。
廊下の奥で、電話が鳴った。
古い呼び出し音が、一定の間隔で響く。机の上を見ると、点検票の隣に黒い受話器があった。
電話が鳴るたび、箱の照明が一つずつ消えていく。
一回。
二回。
三回。
最後の照明が消える直前、操作盤の上に小さな注意書きが浮かび上がった。
呼び出しには、点検員が応答してください。
私は工具箱から懐中電灯を取り出した。扉の外へは出ない。電話にも出ない。朝になれば、別の担当者が異常に気づく。
そう決めて、箱の奥へ下がった。
すると、廊下の電話が鳴りやんだ。
代わりに、胸ポケットの業務用端末が震えた。
画面には、発信元の表示がない。
無視しようとしたが、自動で通話がつながった。
「点検、お疲れさまです」
さっきと同じ声だった。
「いま、何階にいますか」
答えなかった。
「呼ばれていない階には、降りないでください」
廊下の奥から足音が聞こえた。
裸足のような、湿った音だった。一歩ずつ、エレベーターへ近づいてくる。
私は「閉」のボタンを押したまま、扉の隙間を見つめた。
足音は机の前で止まった。
受話器が持ち上がる。
業務用端末の向こうで、私の声がした。
「地下二階です」
その瞬間、扉が閉まった。
箱は勢いよく上昇し、数秒後に地下の管理室へ着いた。扉の外には見慣れた机と分電盤があり、壁の時計は午前零時一分を指していた。
一時間近く点検していたはずなのに、まだ一分しか経っていない。
私は点検を中止し、工具箱を持って建物を出た。
翌朝、担当部署へ報告すると、このビルにはやはり地下二階などないと言われた。非常通話の記録にも、応答した履歴は残っていなかった。
ただし、点検票だけが一枚増えていた。
翌日の日付が入った古い用紙で、最後の欄まで赤い印がついていた。
地下二階 応答あり
署名欄には、私の名前が書かれていた。
それ以来、深夜の点検には二人で行くことになった。
けれど、今夜の同行者はまだ来ない。
午前零時になったとき、エレベーターがひとりでに地下へ降りていった。
階数表示には、見慣れない数字の二が光っている。
そして胸ポケットの端末には、私の番号から着信が続いている。