これは、実在しない町と図書室を舞台にした創作短編です。
その図書館カードには、返却期限がなかった。
正確には、期限を書く欄だけがきれいに空いていた。
薄い灰色の厚紙に、貸出日、資料名、返却期限という三つの欄が並んでいる。角は丸くすり減り、裏には古いインクの跡が染みていた。けれど、図書室の名前も利用者番号もない。
カードは、私が借りた短編集の最後のページに挟まっていた。
駅から遠い住宅地にある、小さな図書室だった。入口には低い本棚が並び、奥の窓から午後の光が入る。私は月に一度ほど立ち寄るだけで、職員と話したことはほとんどない。
その日借りた本も、背表紙の題名だけを見て選んだ。
家に帰り、本を開いたとき、灰色のカードが机へ落ちた。
貸出日の欄には、青いインクで日付がひとつ押されていた。
今日の日付だった。
資料名の欄には、細い文字でこう書かれていた。
窓際の椅子
私は顔を上げた。
窓際には、木の椅子が一脚ある。引っ越してきたときから部屋に置かれていたもので、誰が買ったのかは知らない。座ることもなく、畳んだ服を置く台になっていた。
図書室の誰かが書き間違えたのだろうと思った。
カードを本に戻し、その夜は数ページだけ読んで眠った。
翌朝、窓際の椅子がなくなっていた。
床には四角い日焼け跡だけが残っている。台所にも玄関にもない。狭い部屋だから、探す場所などなかった。
代わりに、灰色のカードが机の中央に置かれていた。
「窓際の椅子」の隣に、赤い印が増えていた。
返却済
私は借りた本とカードを鞄に入れ、図書室へ向かった。
受付にいた職員へカードを見せると、長いこと表と裏を確かめたあと、首を横に振った。
「いまは、この形式のカードを使っていません」
短編集の貸出記録に異常はなかった。本の中に私物が残っていたのかもしれない、と職員は言った。カードはこちらで預かります、と小さな封筒へ入れた。
私は本もその場で返した。
これで終わったはずだった。
けれど、その夜、歯を磨いて部屋へ戻ると、灰色のカードが枕の上にあった。
新しい行が増えていた。
貸出日 今日
資料名 台所の白いカップ
返却期限
流し台には、朝使ったカップが伏せてあった。
私はカードを二つに折り、ごみ箱の底へ押し込んだ。白いカップは食器棚の奥へしまった。
翌朝、ごみ箱は空だった。
食器棚の奥には、丸い水滴の跡だけが残っていた。
カードは玄関の床に落ちていた。「台所の白いカップ」の隣に、赤い返却印が押されている。
それから毎晩、ひとつずつ行が増えた。
ベランダの青い鉢。
引き出しの奥の腕時計。
廊下の小さな鏡。
どれも翌朝には消え、カードには返却済の印が残った。
盗まれた形跡はなかった。窓も玄関も施錠されている。なくなるのは、前からこの部屋にあった物ばかりだった。
私はカードを持って、もう一度図書室へ行った。
閉館前の室内には誰もおらず、受付の照明だけがついていた。先日の職員は不在で、机の上に「奥の書庫にいます」と札が置かれている。
返却口の横に、見覚えのない細い引き出しがあった。
灰色の札が差してある。
期限のない資料
引き出しを開けると、中には同じ形のカードが何百枚も並んでいた。
どのカードにも、椅子や時計や食器の名前が書かれている。赤い返却印で埋まったものもあれば、最後の一行だけ空いているものもあった。
いちばん手前のカードには、私の部屋の住所が記されていた。
利用者名の欄は、前にこの部屋で暮らしていた人の名前らしかった。知らない名前だった。
その下に、小さな文字がある。
貸出資料一式を返却後、利用者カードを回収すること。
奥の書庫から、紙をめくる音がした。
私は持ってきたカードを引き出しへ戻し、図書室を出た。背後で誰かが受付まで歩いてきた気がしたが、振り返らなかった。
帰宅すると、部屋は妙に広くなっていた。
椅子も、カップも、鉢も、時計も、鏡もない。
それでも、カードだけは戻ってこなかった。
私は安心して、久しぶりに深く眠った。
夜中、硬い紙がこすれる音で目を覚ました。
枕元に、灰色のカードが置かれていた。
赤い印で埋まった一覧の下に、最後の行が増えている。
貸出日 入居した日
資料名 この部屋で暮らす人
返却期限
利用者名の欄には、私の名前が書かれていた。
玄関の向こうで、返却口が開くような音がした。
細い隙間から灰色の封筒が差し込まれ、床を滑って止まった。
封筒の表には、赤い文字で一行だけ印刷されていた。
返却期限はありません。いつでもお返しください。