これは、実在しない町と集合住宅を舞台にした創作短編です。
玄関ホールの傘立てには、透明なビニール傘が六本入っている。
どれも同じ白い持ち手で、柄の先には小さな木札が結ばれていた。札には「共有」とだけ書かれている。
この集合住宅へ越してきた日、管理人は洋介に言った。
「急な雨のときは、あれを使ってください。戻すとき、札の裏に部屋番号を書いておいてもらえれば」
ところが、住み始めて三か月たっても、木札の裏は六枚とも白いままだった。
住人たちは自分の傘を持っていた。傘立ての横にはいつも色とりどりの傘が並び、雨の朝にはそれらが一斉になくなる。透明な六本だけが、奥で肩を寄せ合うように残った。
誰も借りていない。
それなのに、雨の夜になると、一本だけ濡れていた。
最初に気づいたのは六月の終わりだった。残業を終えて帰ると、ホールの床に丸い水たまりができていた。共有傘のうち一本から、雫が一定の間隔で落ちている。
洋介は、その傘を誰かが借りて戻したのだと思った。
木札を裏返すと、鉛筆で「二〇三」と書かれていた。
二〇三号室には高齢の夫婦が住んでいる。翌朝、階段で夫と会ったので、洋介は何気なく傘のことを尋ねた。
「共有の傘? うちは使っていませんよ」
夫はそう答え、少し考えてから付け加えた。
「あれは借りないほうがいいと、前の管理人に言われていましたから」
理由を聞く前に、夫は階段を下りていった。
次の雨の夜も、一本が濡れて戻っていた。
今度の札には「一〇一」。しかし、一〇一号室は空室だった。内見用の白いカーテンが、昼間でも閉じられている。
その次は「三〇五」。住人に聞くと、その日は出張で町を離れていたという。
洋介は管理人へ相談した。管理人は濡れた傘を一本ずつ広げて乾かしながら、困ったように笑った。
「誰かが部屋番号を間違えているんでしょう。六本そろっているなら、問題はありませんよ」
確かに、傘はいつも六本あった。
借りる瞬間を見た人はいない。雨がやんだ後には、一本だけ濡れて戻り、借りていない住人の番号が残る。
七月のある夜、洋介は玄関ホールで雨宿りをすることになった。
帰宅した直後に雨脚が強まり、外へ忘れ物を取りに戻れなくなったのだ。ホールの明かりの下で待っていると、共有傘が五本しかないことに気づいた。
誰かが借りている。
洋介は傘立ての正面に立ち、入口のガラス扉を見つめた。
十分たっても、誰も戻らない。
二十分たったころ、傘立ての奥から雫の音がした。
見ると、傘は六本に戻っていた。
入口の扉は閉まったままだった。自動錠の解錠音も、靴音も聞こえなかった。
六本目の傘だけが濡れている。布地から落ちた水が、傘立ての底で細く跳ねていた。
洋介は震える指で、その傘の木札を裏返した。
「三〇二」
洋介の部屋番号だった。
その夜、洋介は傘を持たずに三〇二号室へ戻った。鍵を二度かけ、濡れた上着を玄関に置いた。
午前零時を過ぎたころ、廊下で水の滴る音が始まった。
一滴。
少し間を置いて、もう一滴。
音は階段のほうから近づき、洋介の部屋の前で止まった。
ドアの向こうで、濡れた傘を閉じる音がした。
それから、控えめなノックが三回続いた。
洋介は息を止めたまま、のぞき穴を見なかった。
翌朝、廊下には誰もいなかった。
ただ、ドアノブに透明なビニール傘が一本かけられていた。木札の表には「共有」とある。
裏には、洋介の字でこう書かれていた。
「返却済み」
玄関ホールの傘立てには、変わらず六本の傘が並んでいた。