これは、実在しない街と地下通路を舞台にした創作短編です。
午前二時になると、十八番のコインロッカーが鳴る。
鍵が揺れる音でも、硬貨が落ちる音でもない。古い電話の呼び出し音だった。
夜間清掃を始めて三日目、沙耶は初めてその音を聞いた。
地下通路は終電後に閉鎖され、地上へ続く二つのシャッターも下りている。通路の中央には、四十年前から残っているという橙色のコインロッカーが並んでいた。翌月には新しいものへ交換される予定で、半分以上に「使用停止」の紙が貼られている。
十八番も空だった。少なくとも、管理表にはそう書かれていた。
それでも呼び出し音は、十八番の薄い扉の奥から聞こえてくる。
沙耶は清掃用の手袋を外し、管理鍵を差し込んだ。
扉を開けると、中には黒い電話の受話器がひとつ置かれていた。
本体はない。切れたコードが、ロッカーの背面へ向かって伸びているだけだ。
呼び出し音が止まった。
逃げるべきだと思った。けれど沙耶は、受話器を耳に当ててしまった。
「もしもし」
しばらく雑音が続いたあと、小さな声がした。
「そこ、出口ですか」
男の子の声だった。
沙耶が名前を尋ねると、少年は「ハル」と答えた。母親とはぐれ、暗い通路にいるという。周囲には閉まった売店と、魚の絵が描かれた青い柱が見えるらしい。
沙耶は通路を見回した。売店はない。柱はどれも白い。
ただ、地下通路の古い案内図を倉庫で見たことがあった。改装前は東側に小さな売店があり、その前の柱には海の生き物が描かれていた。
「ハル君、近くに時計はある?」
「あります。二時です。でも、秒針が動いていません」
壁の時計を見る。午前二時ちょうど。秒針は動いていた。
「今日は何日?」
少年が答えた日付は、ちょうど二十年前だった。
沙耶は受話器を握り直した。冗談なら切ればいい。けれど、少年の息は細く震えていた。
「青い柱の後ろを見て。小さな扉がない?」
倉庫の案内図を思い出しながら、沙耶は尋ねた。
「ある。でも、開かない」
「取っ手を下げたまま、扉を少し持ち上げて」
受話器の向こうで、金属がこすれる音がした。
「開いた」
そこから先は、少年に見えるものを一つずつ聞いた。階段を上がり、右手の壁に沿って進み、赤い非常灯の下で待つように伝えた。
沙耶も現在の通路を走った。改装後も残っている非常口は、十八番のロッカーから少し離れた場所にある。
扉の前へ着いたとき、受話器から遠くに人の声が聞こえた。
「お母さんだ」
少年の声が明るくなった。
「見つけた。ありがとう、お姉さん」
通話はそこで切れた。
時計は午前二時七分を指していた。
沙耶が十八番へ戻ると、受話器は消えていた。代わりに、黄色い子ども用の帽子が置かれていた。裏側の白い布に、にじんだ文字で「ハル」と書かれている。
翌日の夕方、一人の男性が閉鎖前の地下通路を訪ねてきた。
古いコインロッカーを写真に残したいのだという。
「子どものころ、ここで母とはぐれたことがあって」
男性は十八番の前で足を止めた。
「暗い通路から出られなくなったんです。でも、どこかの電話につながって、知らない女の人が出口まで案内してくれた」
沙耶は事務室から黄色い帽子を持ってきた。
男性はしばらく何も言わず、その帽子を両手で受け取った。
「これです。なくしたと思っていました」
「名前が書いてあったので、あなたのものだと分かりました」
沙耶がそう言うと、男性は帽子の裏を確かめた。
そして、不思議そうに首を振った。
「名前を書いたのは、あの夜のあとです。もうなくさないようにって、母が」
十八番の扉が、かすかに鳴った。
呼び出し音ではなかった。
誰かが内側から、受話器を静かに置いたような音だった。