【創作短編】閉店後の花屋、注文票の花の名前が毎晩一つ減る

これは、実在しない花屋と人物を描いた創作短編です。

閉店後の花屋で、私は翌朝の注文票を数える。

水を替えたバケツが床に薄い輪を残し、冷蔵ケースの明かりだけが店の奥を青くしている。表のシャッターを下ろすと、花の匂いは昼間より濃くなる。咲いているものも、まだ開かないものも、夜のあいだだけ息をそろえるようだった。

注文票は、レジ横の木箱に入れておく決まりだった。

配達先、時刻、札に書く言葉、使う花。必要なことはすべて細い枠の中に収まる。私は閉店前にもう一度だけ確認し、翌朝の担当が迷わないよう、花の名前へ赤い線を引く。

最初におかしいと思ったのは、月曜の夜だった。

六枚あった注文票のうち、一枚だけ花の名前が消えていた。配達先も時刻も、札の言葉も残っている。けれど、花の欄だけが白い。消しゴムでこすった跡も、インクがにじんだ跡もなかった。ただ最初から何も書かれていなかったみたいに、枠の中が静かだった。

私は自分の書き忘れだと思った。

控えのノートを開くと、そこにはちゃんと花の名前が残っていた。白い小さな花束。そう書いてある。私は注文票へ同じ言葉を書き直し、赤い線を引いた。

翌朝、その注文は問題なく届いた。

水曜の夜、また一枚から花の名前が消えた。

今度は黄色い花だった。控えのノートには残っている。私は書き直した。けれどペン先が紙に触れた瞬間、冷蔵ケースの中で、黄色い花だけがわずかに揺れた。扉は閉まっている。風もない。揺れたのは一本ではなく、同じ色の花ばかりだった。

その夜から、私は注文票を木箱へ入れず、作業台の上に並べて帰ることにした。

金曜の閉店後、消えた花の名前は二つになっていた。

一つは控えのノートで分かった。もう一つは分からなかった。配達先も時刻もある。札の言葉もある。「いつもの場所にお願いします」とだけ書かれている。注文した人の名前は読めるのに、どんな花を頼まれたのか思い出せない。

私は店にある花を順番に見た。

赤いもの、白いもの、青に近いもの、葉だけで形を作るもの。どれを見ても、違う気がした。違うと分かるのに、正しい名前は浮かばない。舌の上まで来ている言葉が、そこだけ水に沈んでいるようだった。

作業台の下で、紙が落ちる音がした。

拾うと、古い注文票だった。日付は先月。配達済みの箱へ移したはずのものだ。花の欄は空白で、札の言葉だけが残っていた。

「忘れないでください」

私はその注文を覚えていなかった。

翌日、先輩に古い注文票のことを聞いた。先輩は、そんな注文はなかったと言った。配達済みの箱を開けても、その日付の控えだけが抜けている。売上の記録も、仕入れの記録も合っている。足りないのは、何を束ねたのかという名前だけだった。

それから毎晩、一つずつ花の名前が減った。

注文票から消え、控えのノートから消え、最後には私の頭の中から消えた。赤い花を見ても、赤い花としか呼べない夜があった。細い葉の名前を忘れ、香りの強い花の名前を忘れた。店には昨日と同じ数だけ花があるのに、呼べるものだけが少なくなっていく。

不思議なことに、名前の消えた注文ほど、翌朝きれいに仕上がった。

どの花を使ったのか分からない。けれど包装紙を開くと、そこに入るべき形がもう決まっている。手が先に動き、茎を切り、束ね、紙を巻く。できあがった花束を見ると、私は安心した。名前がなくても、これは間違っていないと思えた。

ただ、配達から戻るたび、店の花は一種類ずつ減っていた。

空いたバケツはきれいに洗われ、値札も抜かれている。仕入れ表にも、その花があった跡はない。先輩に尋ねても、最初からそんな花は置いていなかったと言われる。私だけが、そこに何かがあったことを、形のない違和感として覚えていた。

最後の注文票が残ったのは、日曜の夜だった。

配達先は空白だった。時刻も空白だった。札の言葉だけが、いつもの細い枠に収まっている。

「名前が残っているうちにお願いします」

花の欄には、一文字だけ残っていた。

花。

私は冷蔵ケースを開けた。中には、バケツが一つだけあった。水は入っている。茎も見える。けれど、その先に何が咲いているのか分からない。色も、形も、匂いも、見た瞬間には確かにあるのに、目を離すとすぐにほどけてしまう。

私はそれを束ねた。

札には何も書かなかった。注文票の言葉を書き写せば、その言葉まで消える気がしたからだ。包装紙を閉じると、花束は思ったより軽かった。水を吸った茎の重さも、花びらの柔らかさもあるのに、手の中の名前だけがない。

店を出ると、シャッターの前に誰かが立っていた。

顔は見えなかった。人の形をしているが、暗がりのせいで輪郭が花束の影と重なっている。私は配達先を聞こうとした。けれど、その人は首を横に振り、花束ではなく、私の手に持った注文票を指さした。

そこには、さっきまでなかった花の名前が書かれていた。

私の名前だった。

私は声を出せなかった。呼ばれたわけではない。書かれていただけだ。それなのに、店の中で冷蔵ケースが静かに止まり、作業台の木箱がからりと鳴った。中の注文票が、すべて裏返った音だった。

翌朝、先輩は店の鍵を開け、きれいに洗われたバケツを一つ見つけたそうだ。

木箱には新しい注文票が入っていた。

配達先、時刻、札に書く言葉は空白。花の欄だけに、細い字でこう書かれていた。

「閉店後に数えていた人」

その日から、店では注文票を数えないことになった。

この作品は創作です。実在する人物・団体・出来事・投稿とは関係ありません。