これは、実在しない貸し会議室と架空の人物を描いた創作短編です。
午前一時の貸し会議室は、昼間より広く見えた。
私は忘れ物を取りに戻っただけだった。建物は駅から少し離れた場所にあり、入口には会社名も店名も出ていない。受付は無人で、廊下の壁には部屋番号と利用時間だけが並んでいる。私が借りていた第三会議室も、もう照明が半分落とされていた。
机の上に置き忘れた黒い手帳を見つけ、すぐ帰るつもりだった。
けれど、ホワイトボードに文字があった。
昼間は何も書いていなかったはずだ。終了時に、全員で机を戻し、ペンの跡まで消した。管理用の写真も撮った。それなのに、白い板の中央に、青いペンで席順が書かれていた。
明日 10:00 第三会議室
その下に、長方形の机が六つ描かれていた。椅子の位置には丸がついている。丸の中には名前ではなく、ひらがなが一文字ずつ入っていた。
わ、た、し、か、え、る。
私は声に出さずに読んだ。意味のある並びに見えるのは偶然だと思った。翌日の予約を誰かが先に準備したのだろう。そう考えようとしたが、第三会議室の予定表には、明日の午前は空欄だった。
消せばいい。
私はイレーザーを取った。青い線は簡単に薄くなった。机の絵も、六つの丸も、文字も、白い粉になって落ちた。最後に日付を消したとき、廊下の奥で椅子を引く音がした。
誰かがいるなら、受付へ声をかければいい。
そう思って扉を開けた。廊下には誰もいなかった。非常灯の緑だけが床に伸び、他の会議室の扉はすべて閉まっている。音は、隣の第四会議室から聞こえたようだった。
第四会議室の窓から中をのぞくと、机が六つ並んでいた。
この部屋は昼間、机を壁際に寄せてあったはずだ。けれど今は第三会議室のホワイトボードに描かれていた通り、細長い島の形に並んでいる。椅子も六脚だけ出ていた。どの席にも人はいない。
一番手前の椅子の背に、青いペンで小さく「わ」と書かれていた。
私は第三会議室へ戻った。ホワイトボードは消したばかりなのに、また青い線が浮かんでいた。今度は机の図だけではない。丸の外側に矢印があり、入口に近い席から順に番号が振られている。
1 わ
2 た
3 し
4 か
5 え
6 る
六つ目の丸だけ、少し濃く塗られていた。
私は手帳を鞄に入れ、部屋を出ようとした。扉の前で、また椅子の音がした。今度は第三会議室の中だった。振り返ると、何もなかった机が、ボードの図と同じ形に少しずつずれていた。
床に固定されていない軽い机だ。動くこと自体は不思議ではない。けれど、誰の手も触れていない机が、脚をこすりながら並び替わっていくのを見ていると、理由を探す気持ちは先に消えた。
椅子も一脚ずつ動いた。
入口に一番近い椅子が、机の前へ滑った。背もたれには、何も書かれていない。次の椅子には「た」、三つ目には「し」。私はその場で数えた。最初の椅子だけが空欄だった。
ホワイトボードの一番上に、新しい線が加わった。
本日の席順
明日、という文字は消えていた。
私は扉のノブを回した。開かなかった。鍵はかけていない。内側からならいつでも開くタイプの扉だ。けれどノブは動くのに、扉だけが壁の一部になったように押しても引いてもびくともしない。
机のほうで、最後の椅子が止まった。
六脚の椅子が、きれいに席順通り並んでいる。空欄だった一番目の背もたれに、青い線がにじみ出した。ペン先が触れた跡ではない。布の奥から、古いしみが浮くように文字が出てきた。
わ。
私は自分の名前ではないことに安心しようとした。けれどホワイトボードの丸は、もう一文字ずつではなかった。六つの丸が細い線でつながり、ひと続きの言葉になっている。
わたしかえる
その言葉の下に、さらに小さな文字が足された。
一番の席から。
私は一番の椅子を見た。入口に一番近い。座れば、扉にもすぐ手が届く。だから逆に、そこしか残されていないように見えた。
座らなければ朝までこのままかもしれない。座れば何かが終わるかもしれない。その二つの考えが、同じくらい頼りなく頭の中で揺れた。
私は一番の席に座った。
扉の向こうで、受付の呼び鈴が鳴った。
一度、二度、三度。こんな時間に誰かが来るはずはない。それでも廊下には人の気配が増えていった。閉まっている会議室の扉の向こうで椅子が引かれ、机がずれ、ペンが板をこする音がした。
ホワイトボードの二番目の丸が濃くなった。
「た」の席が、ゆっくり後ろへ引かれた。誰も座っていないのに、誰かを待つように背もたれが揺れている。私は立ち上がろうとした。けれど膝が机の下に収まり、両手は自然に天板の上に置かれていた。
会議が始まる前の姿勢だった。
廊下の足音が、第三会議室の前で止まった。
扉は内側から少しだけ開いた。さっきまで動かなかったはずなのに、今は誰かを招くように細い隙間を作っている。隙間の向こうに立っていたのは、人ではなかった。
白いホワイトボードだった。
廊下いっぱいの大きさの板が、音もなくこちらを向いていた。そこには、私が消したはずの青い席順が、部屋の中よりずっと大きく書かれている。六つの丸のうち、一番目だけが黒く塗りつぶされていた。
私は、そこに自分が座っているのだと分かった。
二番目の席が、また少し引かれた。
午前一時の貸し会議室で、明日の席順は一つずつ今日に戻ってくる。最後の丸まで埋まったら、私は帰れるのかもしれない。あるいは、帰る、という文字そのものが、六つの席に分けられてここへ呼ばれているのかもしれない。
今もまだ、二番目の椅子は空いている。