これは架空の場所と架空の人物を描いた創作短編です。
山の途中に、その展望台はあった。
名前はない。案内板にも、地図にも、ただ「展望所」とだけ書かれている。駐車場は白線が薄く消え、売店だったらしい小さな建物にはシャッターが下りていた。私は、ふもとの町を一度だけ高い場所から見てみたくて、夕方前の細い道を歩いてそこへ上がった。
展望台には誰もいなかった。
柵の前に、古い双眼鏡が一台だけ立っていた。硬貨を入れる口はふさがれていて、横には「自由にのぞいてください」と紙が貼ってある。紙は日に焼けて、端だけが風でめくれていた。
私は何となく目を当てた。
ふもとには、見えるはずの町がなかった。
かわりに、知らない町が見えた。低い屋根が並び、細い川が一本流れ、橋のたもとに丸い時計台が立っている。私が登ってきた道から見えた町には、そんな川も時計台もなかった。だが双眼鏡の中では、夕日を受けた窓が一つずつ光り、誰かが暮らしている気配だけが静かに動いていた。
目を離すと、いつものふもとが戻った。
赤い屋根の家、まっすぐな道路、学校らしい四角い建物。私はもう一度のぞいた。今度は別の町だった。海もない山の中なのに、白い灯台が見えた。灯台の足元には砂浜ではなく、黒い石畳が広がっている。人影はない。ただ、灯台の入口だけが少し開いていた。
私は双眼鏡から離れ、レンズを外から見た。傷だらけのガラスには、自分の目が小さく映っているだけだった。
紙の下に、もう一枚の紙が重なっていた。
めくると、そこには短く書かれていた。
「長く見ないでください。町に見つかります。」
笑えばよかった。古い展望台に残された、誰かのいたずらだと思えば済む。けれど私は、もう一度のぞいてしまった。
三つ目の町は、雨が降っていた。
こちらの空は晴れているのに、双眼鏡の中だけで雨が細く流れている。通りには傘が一本だけ置かれ、店の看板はすべて裏返しになっていた。屋根の端から落ちる水が、こちら側へ向かう線のように見える。
その町のいちばん奥に、展望台があった。
私は息を止めた。双眼鏡の中の展望台にも、同じ形の柵があり、同じ古い双眼鏡が立っていた。その前に、人影が一つある。顔は見えない。けれどその人影は、こちらを向いて双眼鏡をのぞいていた。
私は反射的に目を離した。
ふもとの町は、もう少し暗くなっていた。風が吹き、展望台の紙が柵に当たって乾いた音を立てる。私は帰ろうとした。帰れば、この話はそれで終わる。誰にも話さなければ、何も起きなかったことにできる。
そのとき、双眼鏡の向こうから、かすかに金属のきしむ音がした。
私は振り返った。こちらの双眼鏡は動いていない。だがレンズの奥で、誰かが焦点を合わせるような、小さな回転音が続いている。
のぞかれている。
そう思った瞬間、展望台の足元に置かれた影が一つ増えた。私の影ではない。柵の外から伸びたような細い影が、双眼鏡の脚に触れている。
私はもう見ないと決めた。
しかし階段へ向かう途中、ふもとの町から五時の鐘が聞こえた。聞き慣れない旋律だった。私が知っている町では、五時に鐘は鳴らない。音は一度だけでは終わらず、川のある町、灯台のある町、雨の町から順番に返事をするように重なった。
最後の鐘が鳴ったとき、私は柵の前に戻っていた。
双眼鏡をのぞくと、今度はどの町でもなかった。
見えたのは、この展望台だった。誰もいないはずの展望台を、少し下から見上げている。柵、シャッターの下りた売店、薄く消えた駐車場。その中央で、私が双眼鏡をのぞいていた。
そして、私の背後に知らない町の入口が見えた。
小さな橋のたもとに、丸い時計台が立っている。灯台の扉が半分だけ開き、雨に濡れた石畳がこちらへ続いている。三つの町が、別々の場所ではなく、同じ道の先に重なっていた。
双眼鏡の中の私は、まだこちらを見ている。
私はゆっくり目を離した。ふもとの町は見えなかった。展望台の柵の外に、細い川が流れていた。駐車場の白線は黒い石畳に変わり、シャッターの下りた建物の屋根には、低い灯台の灯りが回っている。
双眼鏡の横の紙が、新しくなっていた。
そこには、さっきまでと違う字で書かれていた。
「次に来た人が、帰り道を見つけるまで待ってください。」
私は階段を見た。あるはずの下り口は、川に架かる小さな橋へ変わっていた。向こう側には誰もいない。けれど橋のたもとで、丸い時計台だけが、こちらの時刻に合わせて針を戻していた。
私は双眼鏡の前に立ったまま、次の足音を待っている。