閉店後の印刷室、白紙のはずの伝票にだけ残る指紋

これは、実在しない店と架空の人物を描いた創作短編です。

閉店後の印刷室では、まだ紙の匂いだけが動いていた。

私はレジ裏の細い廊下を抜け、明日の伝票を補充するために小さな印刷室へ入った。店の名前はどこにも出していない。制服にも、棚にも、白い壁にも、番号だけが貼られている。ここでは毎晩、閉店後に翌日分の伝票を刷り、束にしてレジ下へ戻す決まりだった。

機械は止まっていた。

排紙口の受け皿には、伝票が一枚だけ残っていた。私はそれをつまみ上げ、すぐに印刷ミスだと分かった。日付も、品名も、金額もない。罫線さえない。ただの白い紙だった。

けれど、右下に指紋があった。

黒いインクではない。薄い灰色の粉が、そこだけ指先の形に残っている。触ると消えそうで、私は紙の端だけを持った。印刷室にいるのは私だけだ。さっきまで手袋もしていた。なのに指紋は、まだ温かいものに触れたあとみたいに、紙の上で少しだけ湿って見えた。

私は白紙を脇へ置き、機械のカバーを開けた。中に詰まりはない。インクの残量も十分で、紙送りのランプも緑に点いている。試しに一枚だけ刷ると、今度は正しい伝票が出た。日付、連番、空欄の品名欄。いつも通りだった。

安心して束をそろえたとき、脇へ置いた白紙が二枚に増えていた。

一枚目には右下の指紋。二枚目には左端の指紋。どちらも同じ指のように見えるのに、向きだけが違った。誰かが紙を裏返しながら、出口を探すように触れた跡だった。

私は扉を見た。廊下の明かりは細く開いた隙間から見えている。鍵はかけていない。けれど、その隙間の向こうで、誰もいないはずのレジの引き出しが一度だけ鳴った。

ちん、と軽い音だった。

印刷室の機械が動き出した。スタートボタンには触れていない。紙送りのローラーだけが低く回り、受け皿へ白い伝票を一枚押し出した。

三枚目の白紙には、指紋が二つあった。

それは誰かの手ではなく、紙の中から押された跡のようだった。指先の丸みが内側から浮き、灰色の粉が輪郭だけをなぞっている。私はようやく、これは印刷されなかった伝票ではないのだと思った。

何かが、白紙の側からこちらを押している。

印刷室の棚には、古い伝票の束がいくつも保管されていた。私は一番奥の箱を引き出した。箱のふたには、廃棄、とだけ書かれている。中の伝票はすべて白紙だった。どれにも文字はない。ただ、一枚ずつ違う場所に、薄い指紋が残っている。

底の一枚だけは、指紋ではなかった。

紙いっぱいに、掌の跡が押しつけられていた。そこだけ粉が濃く、五本の指が開き、こちら側へ出ようとしているように見えた。私は箱を閉じようとした。だがふたが沈む前に、機械がまた紙を吐き出した。

今度の伝票には、罫線があった。

品名欄には何もない。金額欄にも何もない。ただ、担当者の欄にだけ、私の指紋が印刷されていた。

私は自分の親指を見た。灰色の粉がついている。いつ触れたのか分からない。こすっても落ちない。指紋の線の間に、細かな紙の繊維が入り込んでいた。

扉の向こうで、もう一度レジが鳴った。

私は白紙の束をそろえ、伝票の箱を元の棚へ戻した。明日の分は、きちんと刷れている。レジ下へ運べば仕事は終わる。そう思うことにした。

けれど印刷室を出る前、受け皿に最後の一枚が落ちた。

それは完全な白紙だった。指紋も、罫線も、私の名前もない。私はほっとして、紙をめくった。

裏側にだけ、扉の取っ手を握る形の指紋が残っていた。

その取っ手は、いま私が触ろうとしているものと同じ高さにあった。

この作品は創作です。実在する人物・団体・出来事・投稿とは関係ありません。