これは、実在しない待合室と架空の人物を描いた創作短編です。
待合室には、窓がなかった。
入口の扉も、内側から見ると壁と同じ色に沈んでいて、どこから入ってきたのかすぐにわからなくなった。天井の細い照明だけが白く、床も椅子も、番号を映す表示板も、少しずつ色を失ったように見えた。
私は壁際の発券機から紙を一枚取った。
紙には、八十七番、とだけ印字されていた。用件も、時刻も、待ち人数もない。ほかの人たちは間を空けて座り、それぞれ自分の番号札を膝や鞄の上に置いていた。誰も話していない。表示板には、ただいまの番号、と書かれ、その下に六十四番が灯っていた。
六十四番の人は、いなかった。
少なくとも、誰も立たなかった。呼び出し音も鳴らない。受付らしい窓口もない。けれど表示板の六十四は数秒だけ光り、ふっと消えた。次に六十五番が出るのだろうと思ったが、表示板は暗いままだった。
かわりに、私の斜め前に座っていた人が、自分の番号札を見下ろした。
その紙の中央が、白く抜けていた。
数字だけが消えている。紙の端や折り目は残っているのに、そこに印字されていたはずの番号だけが、最初からなかったように消えていた。その人はしばらく紙を見つめ、何かを思い出そうとする顔をした。それから紙を小さくたたみ、隣の空いた椅子に置いた。
本人は、まだそこに座っていた。
私は自分の番号札を握り直した。八十七番の黒い数字は残っている。表示板は暗く、部屋のどこにも六十五番を呼ぶ声はない。それでも、しばらくすると別の席で紙のこすれる音がした。
今度は、壁際の若い人だった。
その人は両手で番号札を持っていた。目の前で数字が薄くなっていくのを見ているようだった。七十番台だったのか、五十番台だったのか、私にはわからない。ただ、黒い線が紙の繊維に吸い込まれるように細くなり、最後には白い四角だけが残った。
「呼ばれていないのに」
誰かが小さく言った。
その声に全員が少しだけ反応した。顔を上げる人、番号札を隠す人、表示板を見つめる人。けれど返事はなかった。ここでは、誰かに話しかけても、答えが戻ってくるまでにずいぶん時間がかかるようだった。
私は隣の椅子に置かれた白い番号札を見た。
数字を失った紙は、ただの紙ではなかった。持ち主が手放したあとも、椅子の上で薄く震えている。空調の風は感じない。なのに紙だけが、息をしているもののようにわずかに動いていた。
表示板が再び光った。
八十一番。
飛びすぎている、と私は思った。六十四の次が八十一なら、あいだの番号はどこへ行ったのか。だが八十一番の人も立たなかった。そもそも、八十一番を持つ人がこの部屋にいるのかもわからなかった。光は数秒で消え、部屋はまた白く沈んだ。
私の番号札は、八十七番のままだった。
それを見て安心した瞬間、少し離れた席の人が立ち上がった。手元の紙から数字が消えたらしい。けれどその人は出口を探すでもなく、壁に向かって歩いた。入口があったはずのあたりまで行き、白い壁の前で止まり、そのまま椅子にもたれるように座り込んだ。
誰も助けに行かなかった。
助けに行く理由を、みんな思い出せないようだった。
私はようやく気づいた。番号が消えると、人が消えるのではない。待っていた用件が消えるのだ。何のために来たのか、誰に呼ばれるはずだったのか、どれくらい待っていたのか。その中心だけが抜き取られ、体だけが椅子に残される。
だから、数字を失った人たちは静かだった。
怒る理由も、帰る理由も、順番を確かめる理由も、なくなっていた。
私は番号札を胸の前で握った。八十七番。まだ残っている。残っているということは、私にはまだ待つ理由がある。けれど、その理由が何だったのかを思い出そうとすると、頭の中に白い壁だけが広がった。
いつからここにいるのだろう。
誰に会うつもりだったのだろう。
発券機の前まで戻ろうと立ち上がったとき、表示板が光った。
八十七番。
呼び出し音は鳴らなかった。扉も開かなかった。窓口も現れなかった。ただ表示板の数字だけが、私の持つ紙と同じ形で白く光っていた。私は立ったまま、自分の番号札を見下ろした。
数字は、消えていなかった。
それなのに、表示板の八十七番はゆっくり薄くなっていく。呼ばれた番号ではなく、呼ばれなかった番号のように。私は紙を折ろうとした。捨てれば終わる気がした。けれど指が動かなかった。
待っていた理由を忘れても、待っていたことだけは残る。
表示板が完全に暗くなったあと、私の紙にはまだ八十七番が残っていた。周りの人たちは私を見ていない。数字を失った白い紙だけが、いくつも椅子の上で静かに震えている。
私はもう一度座った。
次に表示板が光ったとき、そこには何番も出なかった。
ただ、短い文字だけが浮かんでいた。
「まだ待ちますか」
私は番号札を裏返した。裏には何も印字されていない。白い紙を見ているうちに、最初から八十七番などなかったような気がしてきた。そう思った瞬間、表の数字が一つだけ軽くなった。
七だけが消えていた。
残った八十番を見て、私はなぜか安心した。まだ全部ではない。まだ待っていることにできる。そう考えて、私は紙を膝の上に置いた。
待合室には、窓がなかった。
時間を見るものもなかった。
ただ、呼ばれていない番号だけが、ときどき少しずつ消えていった。