夜の水族館、空の水槽だけが濡れている

これは、架空の水族館と架空の人物を描いた創作短編です。

夜の水族館では、水の音が実際よりも遠く聞こえる。

昼間は子どもの声や案内放送にまぎれている循環ポンプの低い響きが、閉館後になると壁の向こうから戻ってくる波のように残る。私は展示替えのあいだだけ雇われた夜間清掃員で、客のいない通路を一人で回り、床に落ちた紙くずや、ガラスに残った指の跡を消していた。

その水槽は、順路の最後にあった。

横長の大きな水槽で、昼間は小さな銀色の魚が群れになって泳いでいたらしい。けれど私が働き始めた週には、展示替えのため中身はすべて移され、底砂も飾りの岩も取り除かれていた。青い照明だけが弱く残り、空のガラス箱の奥に、黒い排水口が一つ見えていた。

最初の夜、その前を通ったとき、床が濡れていた。

水槽の前だけ、細いしずくが何本も垂れたように光っていた。私は排水作業の拭き残しだと思い、モップで拭いた。水は少しぬるく、塩気もなく、ただ手洗い場からこぼしたような水だった。

翌夜も、同じ場所が濡れていた。

三日目には、水槽の内側まで濡れていた。

魚も水も入っていないはずなのに、ガラスの内側に細かい水滴がびっしり付いていた。外側を拭いても消えない。ライトを当てると、水滴は奥から手前へゆっくり流れ、空の水槽の底へ集まっていった。

私は管理室へ戻り、作業記録に「最終水槽周辺、結露あり」と書いた。

翌朝、担当の人は首をかしげた。日中に確認したとき、水槽は乾いていたという。排水管も止まっている。照明の熱も弱く、結露するほどの温度差はない。念のため業者へ連絡しておく、と言われたが、その日の夜も水槽は濡れていた。

濡れ方だけが少し変わっていた。

ガラスの中央に、丸く乾いた場所があった。人が内側から額をつけたような高さだった。その周りだけ水滴が避け、丸い跡の下に、短い線が一本垂れていた。

私はその跡を見ないようにして、床を拭いた。

次の夜、丸い跡は二つに増えていた。大きいものと、小さいもの。どちらも内側から付いたように見えた。水槽は空で、扉は施錠され、バックヤードへの通路も閉まっている。私の鍵では開かない場所だった。

それでも、ガラスの内側には新しい水滴が増えていた。

私はその日から、最終水槽を最後に回るのをやめた。先にそこを拭き、それから別の通路を回り、もう一度戻って乾いているか確かめることにした。だが戻るたび、水槽は濡れていた。拭いたあとの床にも、細い水の線が伸びていた。

線は、排水口からではなく、水槽の下からこちらへ向かっていた。

一週間目の夜、私は懐中電灯を消し、青い照明だけで水槽を見た。

空のはずのガラスの奥に、通路が映っていた。私の背中、非常灯、天井の配管。そこまでは普通だった。けれど反射の中だけ、私の隣に誰かが立っていた。

小さな影だった。

背丈は子どもくらいで、顔は水滴の向こうににじんでいた。通路には誰もいない。振り向いても、青い床が続いているだけだった。もう一度ガラスを見ると、影は水槽の内側に移っていた。

水槽の中から、こちらを見ていた。

私は声を出せなかった。影は動かない。ただ、濡れたガラスに額を近づけるようにして立っていた。すると内側の水滴が、ゆっくり形を変えた。丸い跡の下に、線が二本、三本と増えていく。

文字ではない。

けれど、誰かが濡れた指で何度も同じ場所をなぞったような跡だった。

私はモップを置き、管理室へ走った。夜間の責任者に電話をかけたが、呼び出し音だけが続いた。戻りたくなかった。けれど清掃道具を置いたまま帰るわけにもいかず、十分ほどしてから最終水槽へ引き返した。

水槽は乾いていた。

床も乾いていた。ガラスには指の跡も額の跡もなく、青い照明だけが空の箱を照らしていた。私はモップを拾い、作業記録には何も書かなかった。結露あり、と書けば、また日中には乾いている。影がいた、と書けば、私がこの仕事を続けられなくなるだけだと思った。

翌日、最終水槽の前に張り紙が出ていた。

「展示準備中」

それだけだった。どんな展示になるのかは書かれていない。私はその紙を昼間の客が見て通り過ぎる様子を想像した。中身のない水槽の前で立ち止まり、少しだけのぞき込み、何もいないとわかって次へ進む。

その夜、水槽はまた濡れていた。

今度は内側ではなく、外側だった。ガラスの前面に、細かい水滴がついている。私は手袋をしたまま布を当てた。水滴は簡単に拭き取れた。だが、その下から、乾いた文字が現れた。

「そちらはまだ空いていますか」

私はしばらく動けなかった。

水槽の中は空だった。通路にも、私以外は誰もいなかった。ただ青い照明だけが、何も入っていないガラス箱を満たしていた。

その夜の作業記録に、私は初めて別の言葉を書いた。

最終水槽、異常なし。

書き終えてから、ペン先が濡れていることに気づいた。

この作品は創作です。実在する人物・団体・出来事・投稿とは関係ありません。