これは、架空の植物園と架空の温室を舞台にした創作短編です。
閉館後の植物園は、昼間よりもずっと湿った音がする。
水路を流れる細い水音、葉先から落ちる滴、ガラスの天井を冷やす夜風。どれも小さいのに、客の足音が消えると急に近くなる。私は温室の見回りを任されるようになってから、その音の順番でだいたいの場所を覚えた。
最初に異変に気づいたのは、大温室の奥にある空き区画だった。
そこは次の展示替えまで何も置かない予定で、黒い土の入った長方形の花壇だけが並んでいた。葉も茎もない。支柱もない。けれど、花壇の端に白い名札が一本だけ刺さっていた。
名札には、細い文字でこう書かれていた。
「夜にだけ根を伸ばすもの」
品種名ではない。説明にもなっていない。誰かのいたずらだと思い、私は名札を抜いて事務室の机に置いた。翌朝、開館前に確認すると、その名札はなくなっていた。
代わりに、同じ空き区画へ二本の名札が増えていた。
「水を飲まない葉」
「名前を呼ぶとしおれる花」
もちろん、花壇には何も生えていない。黒い土は平らなままで、誰かが踏み込んだ跡もなかった。私はその日から、閉館後の見回りで空き区画を最後に回るようになった。先に見てしまうと、そのあとの温室全体が知らない場所に変わる気がしたからだ。
三日目には五本になった。
四日目には八本になった。
名札は増えても、植物は一本も現れない。どれも実在の品種名には見えず、説明文のようでいて、読むたびにこちらの記憶をなぞるような言葉ばかりだった。
「前に置いたはずの鉢」
「誰も切っていない蔓」
「忘れられた温度」
私は名札を抜くのをやめた。抜くと、次の日に少しだけ増える数が多くなる気がした。代わりに、見回り表の隅へ本数だけを書いた。五本、八本、十三本。数字は毎晩、規則を持って増えているようにも見えたが、確かめるほどそれ自体が名札に読まれている気がして、途中で数えるのをやめた。
七日目の夜、空き区画の前に立つと、名札は花壇の端だけではなく、土の中央にも刺さっていた。
私は通路の明かりをつけたまま、一番手前の名札を読んだ。
「見回りのあとに振り返る人」
手が冷たくなった。
植物園には、私の名前を知る人がいる。だが、この温室での癖まで知っている人はいない。私はいつも大温室を出る直前、消灯したガラスの暗さが気になって、一度だけ振り返っていた。
その名札だけを抜こうとした瞬間、土の中から水音がした。
水路は通路の反対側にある。花壇の下に配管はない。なのに、黒い土の奥で、細い水が根の間を通るような音がした。何も生えていないはずの場所から、見えないものが水を吸っている音だった。
私は名札から手を離し、そのまま温室を出た。
翌朝、空き区画には何もなかった。名札は一本もなく、土は平らで、夜の水音を示す跡もない。展示替えの作業が始まり、そこには予定どおり小さな鉢が並べられた。昼の光の下では、ただの新しい展示にしか見えなかった。
それでも私は、閉館後の見回りでその区画を避けるようになった。
しばらくして、別の温室の隅に、新しい名札を見つけた。
今度は土ではなく、何も入っていないガラスケースの中だった。ケースの扉は閉まり、鍵もかかっている。名札は内側から外へ向けて立てられていた。
「まだ見つかっていない担当者」
その夜から、私は見回り表に本数を書かなくなった。
かわりに、最後の欄へ毎回同じ言葉を書く。
異常なし。