これは、実在しない店と人物を描いた創作短編です。
その古本屋では、すべての本に同じ形の値札が貼られていた。
親指の爪ほどの白い紙に、青いインクで値段だけが書かれている。店の奥にある棚も、入口脇の安い本を集めた箱も同じだった。
私は週に三日、夕方から閉店まで店番をしていた。店主が買い取った本を棚へ運び、値札が剥がれかけていれば、新しいものに貼り替える。それほど忙しい店ではない。
その日も、窓際の棚で一枚の値札がめくれていた。
薄い灰色の表紙をした、題名のない本だった。背にも文字がなく、開くと短い物語がいくつも収められている。最後の数ページだけが白紙だった。
値札を指で押さえたとき、紙の裏に鉛筆の線が見えた。
気になって、端を少しだけ持ち上げた。
「明日 午後三時十分」
時刻は小さく、まっすぐな字で書かれていた。
誰かの覚え書きだと思った。けれど、値札の裏に予定を書く理由がわからない。紙を元どおりに貼り、私はその本を棚へ戻した。
翌日の午後三時十分、入口のベルが鳴った。
客は窓際の棚へ迷わず進み、題名のない灰色の本を抜き出した。
「これをください」
壁の時計を見る。長い針が、ちょうど二の位置にあった。
偶然だと思いながら代金を受け取った。客が帰ったあと、私は剥がした値札をレジ脇の小箱へ捨てた。
念のため、紙を裏返す。
さっきまであった時刻は消えていた。
次に確かめたのは、料理の本だった。
値札の端を傷つけないように持ち上げると、「明日 午後四時二十五分」とある。
翌日の午後四時二十五分、買い物袋を提げた客が料理の本を持ってきた。
その次は、古い地図の本。
「明日 午前十一時五十分」
私は店主に頼み、その日だけ開店から店番をした。午前十一時五十分になると、入口で長く棚を眺めていた客が地図の本を買った。
どの客も、値札の裏など見ていない。時刻を教えたこともない。それでも本は、裏に書かれた時刻どおり店を出ていった。
私は店主に、値札をどこで作っているのか尋ねた。
店主はレジの下から白い紙の束を出した。どこにでもありそうな、裏面に糊のついた値札だった。
「昔からこれだよ。足りなくなったら、奥の机で切っている」
束の裏は、どれも白い。
棚の本に貼られた値札だけに、明日の時刻があった。
私は、時刻の書かれた本を一冊隠してみることにした。
選んだのは、黄色い背表紙の薄い詩集だった。値札の裏には「明日 午後五時四十分」。私はそれをレジの下の引き出しへ入れ、鍵をかけた。
翌日、午後五時を過ぎても、詩集を探す客は来なかった。
五時三十九分。店内に客はいない。
壁の時計の秒針が一周するのを、私はレジの前で見守った。
午後五時四十分。
入口のベルは鳴らなかった。
代わりに、引き出しの奥で紙を剥がす音がした。
鍵を開ける。詩集はそこにあった。
値札だけが消えている。
表紙には四角く薄い跡が残り、引き出しの底に青いインクで値段が写っていた。
その夜、売上を数えると、詩集一冊分だけ多かった。
紙幣の間には、見覚えのない白い値札が挟まっていた。
裏返すと、「受け取り済み」と書かれていた。
私は詩集を棚へ戻さなかった。店主には、傷みが見つかったので取り置いたと説明した。
それから値札の裏を見ないようにした。
本がいつ売れるかを先に知ったところで、店番の役には立たない。時刻を避けても、値札だけがどこかへ行く。何に受け取られたのか、考えたくなかった。
一週間ほど過ぎた閉店前、店主が奥から一冊の本を運んできた。
「これは、うちの本だったかな」
深い緑色の布張りで、表紙にも背にも文字はない。買い取りの記録はなく、店主も見覚えがないという。
本を開くと、最初のページに古本屋の見取り図が描かれていた。
窓際の棚。レジ。値札を切る奥の机。
店の名前は書かれていない。それでも、棚板の傷や、少し傾いた壁の時計まで同じだった。
次のページには、店主が緑色の本を運ぶ姿が描かれている。
その次には、私が本を開いている姿。
顔は描かれていなかった。ただ、袖口のほつれた服も、レジに置いた鍵の位置も、いま目の前にあるものと一致していた。
ページをめくるほど、描かれている時刻が現在に近づいた。
最後の絵は、店の外から見た閉店後の窓だった。
棚もレジも暗い。窓の中央に、緑色の本だけが立てて置かれている。
その下に、短い一文があった。
「店番が一人、棚に加わる」
私は本を閉じた。
裏表紙に白い値札が貼られていた。青いインクで書かれた金額は、どの本よりも安かった。
値札の端は、すでに少し浮いている。
見てはいけないと思った。
それでも指が動いた。
「明日 午後六時」
店主は、明日は用事があるから閉店まで任せたいと言った。私は断ろうとしたが、喉から出たのは「わかりました」という声だった。
翌日、緑色の本を自分の鞄へ入れて店に来た。
棚へ置かなければいい。午後六時より前に店を出ればいい。そう考えていた。
ところが、午後五時を過ぎたころ、鞄の底で紙をめくる音が始まった。
一枚ずつ、ゆっくりと。
本を取り出すと、昨日は白紙だった後ろのページに絵が増えていた。
私が緑色の本を鞄へ入れる絵。
一人で開店する絵。
午後五時五十分、入口の札を裏返して閉店にする絵。
すべて、その日すでにしたことだった。
次のページには、午後五時五十九分の壁時計が描かれている。
レジの前に立つ私は、両手で緑色の本を持っていた。
その次が最後のページだった。
午後六時を示す時計。
誰もいない店。
窓に立てられた、題名のない灰色の本。
先週、午後三時十分に売れたはずの本だった。
入口のベルが鳴った。
鍵をかけた扉の向こうに、あの灰色の本を買った客が立っている。胸に本を抱え、ガラス越しに私を見ていた。
客は口を動かした。
声は聞こえない。
けれど、何を言っているのかはわかった。
「返しに来ました」
壁の時計は、午後五時五十九分。
私は緑色の本の値札を剥がした。丸めて床へ落とし、本をレジの下へ押し込んだ。
扉の鍵には触れなかった。
秒針が十二を指した。
午後六時。
店内のすべての本から、紙を剥がす音がした。
数え切れない白い値札が、棚から一斉に舞い上がった。
紙は床へ落ちず、店の中央で細い渦になった。どの裏にも時刻が書かれている。今日、昨日、ずっと先の日。青い値段は見えなくなり、鉛筆の数字だけが私の周囲を回った。
照明が消えた。
暗闇の中で、レジの下から本が開く音がした。
私は入口へ走った。鍵を回したはずなのに、扉の向こうには通りがなかった。
ガラスの先に、窓際の棚が続いている。
その棚の前で、灰色の本を抱えた客が待っていた。
客は本を差し出した。
「次の物語が終わったので」
灰色の表紙が開く。
白紙だった最後のページに、私が描かれていた。
顔のない店番が、値札に時刻を書いている。
気づくと、私は奥の机に座っていた。
目の前には新しい値札の束と、先の尖った鉛筆がある。
手を止めようとしても、指は勝手に動いた。
「明日 午後三時十分」
書き終えると、店のどこかでベルが鳴った。
翌朝、店主が古本屋を開けた。
店内に変わったところはなかったという。
ただ、店番は来なかった。
窓際の棚には、見覚えのない灰色の本が一冊増えていた。
最後の物語の題名は、「古本屋の値札の裏に書かれた、明日の時刻」。
その値札の裏には、翌日の閉店時刻が書かれていた。