これは、実在しない場所と人物を描いた創作短編です。
午前四時まで、あと二十三分だった。
店内には私しかいない。壁際で六台の乾燥機が回り、丸い窓の向こうを白いタオルや黒い靴下が流れていた。
引っ越しは朝からだというのに、荷造りの途中で洗濯機が動かなくなった。新しい部屋へ濡れた服を運びたくなくて、私は夜明け前のコインランドリーへ来た。
残り時間がゼロになる。低い音が止み、いちばん端の乾燥機が電子音を鳴らした。
扉を開けると、温かい空気が頬に触れた。タオルも靴下も乾いている。
ただ、一枚だけ濡れていた。
薄い灰色のシャツだった。
見覚えがない。襟は細く、袖が妙に長い。洗濯物を入れたとき、こんなシャツはなかったはずだ。
誰かの忘れ物が機械の奥に残っていたのだろう。そう考えて、店の隅にある忘れ物の籠へ移そうとした。
袖口から水が落ちた。
一滴、二滴。
床にできた小さな水たまりが、私の靴のほうへ細く伸びてきた。
私はシャツを乾燥機へ戻し、扉を閉めた。もう一度だけ回して、乾かなければ籠に置いて帰ることにした。
十分を追加すると、表示された残り時間は「23」だった。
押し間違えたのかと思った。けれど、料金の表示は十分ぶんしか減っていない。
乾燥機は回り始めた。濡れたシャツは窓に張りつき、落ち、また張りついた。
一周するたび、胸元がこちらを向く。
まるで、中から窓をのぞいているようだった。
午前四時まで、あと十五分。
私は自分の洗濯物を畳みながら、端の機械を見ないようにした。店内の時計は秒針の音を立てない。それでも、針が進むたびに何かが近づいてくる気がした。
背後で、紙を丸めるような音がした。
振り返ると、乾燥機は止まっていた。残り時間は「14」のままだ。
扉の内側に、シャツが広がっている。
両袖を左右へ伸ばし、掌のない腕で扉を押さえていた。
私は電源ボタンを押した。反応はない。扉の取っ手を引くと、あっさり開いた。
シャツが床へ落ちた。
まだ冷たく濡れている。
胸のポケットが膨らんでいた。中には、四つ折りの紙が入っている。
紙まで濡れていたが、鉛筆で書かれた一行だけは読めた。
「四時になったら、迎えに来る」
誰が、誰を。
入口を見る。ガラス扉の向こうに人影はない。駐車場も、その先の道も暗かった。
私は紙をポケットへ戻さず、折り畳み台の上に置いた。シャツは忘れ物の籠へ押し込み、自分の洗濯物を鞄に詰めた。
午前四時まで、あと九分。
入口へ向かうと、自動扉が開かなかった。
近づき直しても、手を振っても動かない。脇の手動ボタンにも灯りがついていなかった。
店の照明が一列ずつ消えた。
奥から入口へ、一本ずつ。
最後に乾燥機の表示だけが残り、六台すべてに同じ数字が浮かんだ。
「08」
機械の中は空のはずなのに、一斉に回り始めた。
忘れ物の籠から、濡れた袖が垂れている。
その先から落ちた水が床を横切り、入口とは反対側へ続いていた。店の奥、乾燥機と壁のわずかな隙間へ向かっている。
水の跡を目で追うと、壁に細い扉があった。
入店したときにはなかった扉だ。
白い取っ手の下に、小さな札が掛かっている。
「受け取り口」
午前四時まで、あと六分。
扉の向こうから、乾いた布をこする音がした。
それに重なって、私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
知らない声だった。低くも高くもなく、遠い部屋から壁越しに呼んでいるような声。
それなのに、発音だけは私自身の声に似ていた。
私は返事をしなかった。
忘れ物の籠からシャツを引き出し、ポケットの紙をもう一度開いた。
文字が増えていた。
「四時になったら、迎えに来る」
その下に、さっきまでなかった一行がある。
「乾いた服を着て待っていて」
私は自分の服を見た。洗濯物を畳む間に汗をかいたはずなのに、シャツも上着も不自然なほど乾いていた。指先の水分まで奪われたように、皮膚がつっぱっている。
手に持った灰色のシャツだけが水を滴らせていた。
午前四時まで、あと三分。
受け取り口の取っ手が、内側からゆっくり下がった。
私は濡れたシャツを頭からかぶった。
理由を考える余裕はなかった。ただ、紙に書かれたとおりの姿で待ってはいけないと思った。
冷たい布が顔を覆う。袖へ腕を通すと、長すぎたはずの袖口が手首にぴたりと合った。
胸のポケットの内側で、紙が震えた。
受け取り口が開く。
隙間の向こうには、同じコインランドリーがあった。
六台の乾燥機。同じ折り畳み台。同じ時計。
ただし、向こうの店内は明るく、時計は午前四時を指している。
中央に一人の客が立っていた。
私と同じ顔をしていた。
向こうの私は、よく乾いた灰色のシャツを着ている。手には空の洗濯籠を持ち、笑いながらこちらへ歩いてきた。
「迎えに来たよ」
店内の時計が、午前四時になった。
六台の乾燥機が同時に止まった。
その瞬間、私が着ていたシャツから水が噴き出した。足元に広がった水が受け取り口を越え、向こうの店へ流れ込む。
乾いたシャツの私が、初めて笑うのをやめた。
その姿は水に触れた足先から薄くなり、濡れた紙の絵のように崩れていった。
私は扉を閉めた。
照明が戻り、自動扉が開く音がした。
外はまだ暗かったが、空の端だけが青くなっている。
私は灰色のシャツを脱ぎ、忘れ物の籠へ置いた。もう水は落ちていなかった。
鞄を抱えて店を出る。
ガラス越しに振り返ると、壁の時計は午前四時一分を指していた。
忘れ物の籠には、よく乾いた灰色のシャツが一枚ある。
その胸のポケットから、四つ折りの紙が少しだけ見えていた。
翌朝、引っ越し先で鞄を開けた。
畳んだ服はどれも乾いている。
ただ、一番下に入れた覚えのない灰色のシャツだけが、冷たい水を滴らせていた。
ポケットの紙には、新しい時刻が書かれていた。
「明日の午前四時」